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プロフィール

プロフィール │ 2022.06.12 更新

古川幸子のSTORY

相関図

幼少期

私は長女として、この世に誕生しました。

父方の祖父母と、弟、妹、両親の7人家族で暮らし大きくなります。

当時の記憶でとても鮮明に覚えているのが、祖母の人たらしなところ。祖母は家電屋さんの社長の妹だったので、60歳をすぎても、営業ウーマンとして、お店に立っていました。保育園は祖母の会社の近くで、よく祖母がお迎えに来てくれていました。

営業という仕事柄、祖母はとても人が大好きな人で、食料品の買い物にいくと、誰から構わず声をかけて、「あなた、この鶏肉、どうやって調理されるの?」と質問したり、明かに初対面だろう人とも、長い時間会話をしていました。小さいながらに、「おばあちゃんって凄いなぁ!おばあちゃんはみ〜んなとお友達なんだ。」と思っていました。

もしかしたら、私の人たらしな性格は、祖母譲りなのかもしれない、と感じています。

そして、もう一つ、記憶に残っていることは、私が保育園の滑り台から落ちて、気絶したという事件!!

その時は、わかりませんでしたが、今自分が母となったら、その時の母の気持ちが痛いほどわかります。私はその時の怪我のせいで、おでこの一部はもう小さい頃からずっと白髪しか生えてこないんですけれど、その白髪を見るたびに、母への申し訳なさでいっぱいになります。生きた心地がしなかっただろうなぁ。

私の弟は、年子で一つ下だったのですが、あまり弟と喧嘩した記憶は幼少期にはないのですよね。異性だったからなのか、弟が我慢していたのかしら?

働きながら、年子の子を育てるって、相当大変だっただろうなぁと思います。当時は育児休暇制度などはなく、産休だけで復帰していたと聞きました。2ヶ月でフルタイムで復帰って!!!母のスーパーウーマンっぷりには、いつまでたっても勝てる気がしていません。

小学生

小学校で覚えていることは、鍵っ子で寂しかったという記憶。

父と母は働いていたし、弟は保育園、同居していたので、祖父は家にいましたが、二階の自分の部屋に入ったきり。

そして、私が1年生の時に、6歳下に妹が生まれました。学校から帰ってくると、お母さんと赤ちゃんが布団で寝ていました。「猿みたい!!!」と人間とは思えないと感じた記憶は鮮明に残っています。

またまた母は、2ヶ月くらいでお仕事に復帰し、私、弟、妹を働きながら育て、同居の祖父母を助け家事もバリバリこなします。もう、本当にすごい。

でもだからこそ、大変なことが分かっているからこそ、あんまり甘えることはできなかったなぁ。

小学生の時、確かヒレカツをおじいちゃんと妹が取り合っていて、私はそれを「いいなぁ。私はとても欲しいとは言えないわ。」と羨ましく思っていた記憶が蘇ります。長女のあるあるなのかしら、、、言いたいけど、言えない!!!

弟も小学生になって、いつもお留守番は二人でしていました。とても思い出深い記憶が、二人でおやつの肉まんをレンジで10分加熱してしまって、レンジから煙が出て、ちょっとした騒ぎになったこと。説明書に多分、蒸す場合は10分って書いてあったんでしょうね。火事とかにならなくて良かった、、、、

そして小学4年生の時に、大好きだった祖母が亡くなるという、私にとって初めての身近な人の死を経験する出来事がやってきます。

私は祖母が大好きでしたし、何より、母も祖母がいたからなんとか同居をこなせていたように思います。

その祖母が亡くなり、同居のストレス?なのかな?祖父のストレス?なのかな、、、母が病気になりました。確か私が小学6年生の時だったと思います。会社から帰ってきた母の顔は左右非対称で、苦しそうでした。顔面麻痺という病名でした。しばらくの間入院して治療することになり、母が不在の生活が続きました。

朝ご飯も、夕ご飯も、洗濯や、掃除も!一生懸命頑張っていたなぁという記憶が蘇ります。

私はこの当時、「母を困らせると病気になる。」という思い込みを握りしめました。

小学生の6年間は、我慢や寂しさ、祖母との別れ、どうしようもないもどかしさを感じた6年間でした。

中学生

中学生でのほろ苦い記憶、、、、それは、「口は災いの元」

私はバレー部でキャプテンを務め、学級委員もやっちゃって、なんならテストはいつも一桁の順位、絵に書いた様な、優等生でした。

あの頃の私の生活習慣、勉強習慣があれば、何にだってなれる!と思うほどのコツコツ真面目ちゃん。実は私の長女も今そんな感じ。とっても真面目。

でも今になって思います。もっと肩の力抜いて〜、いろいろ適当にやったっていいんだよって。

中学2年生だったと記憶していますが、同じ部活の子が好きだったS君と仲良くしていたせいで(そう思っているけど、実は別の理由かも)無視をされるという経験をしました。

また同じ頃、すっごく仲がいいと思っていたサッカー部のD君からも、急に無視される様になって(この理由はいまだによくわかりません。同窓会とかで会ったら、面と向かって聞きたいわぁ。)他のサッカー部男子全員からも無視されていました。

「ん〜?私何かしたかなぁ?きっとなんか変なこと言っちゃったのかなぁ。」と思いながらも、心は悲しくて寂しくて、、、

でもそれをお母さんに言えたのは、だいぶ経ってからでした。

仕事で一生懸命な母を、悲しませたくなかった。心配させたくなかった。

そして、「私が困らせたらお母さんがまた病気になる。」という思い込みもありました。

今母親になってわかることは、娘のどんな些細な気持ちの変化も、受け止めてあげたいし、いつでもなんでも話をしてもらえる環境を作ってあげたい、親はそう思っているってことです。

高校生

中学時代、大変な優等生だった私は、(自分で言う!)県内有数の名門高校に入学しました。従兄弟のお兄ちゃんも通っていた憧れの高校。

部活は陸上部に入ります。もう、走るのが楽しくて楽しくて。陸上は基本的には自分との闘いだから、ストイック魂が炸裂したんですね。部活にのめり込んでました。800mとか1500mとか3000mとかの中長距離。短距離は遅いんですけど、長距離は得意!!

私の学年は私一人で、さらに一つ上の先輩は0、だから二つ上の先輩(当時の3年生)がすごく可愛がってくれて、とっても楽しかったです。

お勉強の方はと言うと、当然みんな優等生が集まってくる高校なので、勉強しなければ下位クラス、でも中学校の時の様に、勉強を必死で頑張りたいとも思わず、堂々と下位クラスをキープしてました。

高校生活は、今でも付き合える仲良しのお友達ができたり、陸上での大会の思い出など、本当に楽しくて充実していました。

挫折といえば挫折なんでしょうけれど、「勉強しなければ、いい点数は取れない。努力したら、報われるけど、努力をサボったら、報われない。」と言う当たり前のことを学んだ高校時代だったとも言えます。

大学生

大学は、地元の公立大学に入学しました。運よく入れたと言えるかなぁ、、、。高校は頑張って進学校に行ってしまったため、周りはみんな有名大学を目指していました。

でも、わたしはその大学を受ける偏差値までとてもいけなかったので、滑り止めの私立と、少しレベルを落とした地元の公立大学を受験しました。当時のことを思い返すと、「何がやりたいか、何を勉強したいか」という根本的なことは後回しで、「自分の実力でなんとか入れる大学」を探すことだけに精一杯になっていたなぁ。

今なら、大学以外の選択肢もたくさん見つけられるのに。その時は、盲目に「大学に入って、一流企業につとめることが幸せへの道だ!」と思っていたのです。

大学は外国語学部の中国学科に入学したので、中国語を一生懸命学んでいました。1年生の時に1か月北京に留学したことは、とっても大きな転機となったと記憶しています。親元を離れて、自分一人で生活すること。

そして、日本語という言語が通じない人たちと、中国語という別の言語を用いて意思疎通できる楽しさを感じました。

この経験がきっかけとなり、大学4年生になる時に、1年中国に留学するという決断をしました。当時のわたしは、引かれたレールをはみ出すことは、とっても怖かった。大学は4年間で卒業するものというのが、わたしにとってはいわゆる引かれたレールです。

なので、1年留学して、大学を5年間通って卒業する、という決断は、わたしにとってはレールをはみ出す決断だったのですね。当時の大学生のわたしが、今のわたしを見たら、きっと驚くでしょうね。

レールはみだしまくってるぅ!!!!笑

社会人

大学を5年間通って、無事に卒業したわたしは、地元の大手企業をかたっぱしから受けていくことになります。一流企業に入って、定年までつとめあげることが幸せの形であることになんら疑問を持たないわたしでしたので、ここでもまた「わたしに何ができるか、わたしは何がしたいか」ということよりも、「有名な企業で、わたしが入社できるところ」を必死で探していました。

当時は就職氷河期と一応は言われていた時代、100以上のリクルートシートを書きましたが、最終面接まで行ったのはほんの数社だけ。

その中で、内定をもらえた会社はたった2つでした。

一つは地元の飲料メーカー、もう一つは大阪の商社でした。

学んできた中国語を生かせるのは、大阪の商社でしたが、母に言われた一言で、わたしは地元の飲料メーカーに就職することを決めました。

「さっちゃんには、近くにいて欲しいなぁ。」

何気ない一言でしたが、あの母のなんだか寂しそうな、照れたような、表情は今でも目に焼き付いています。

出産と両親の死

地元の飲料メーカーで出会った主人と結婚し、第一子を妊娠しました。2007年の5月長女を出産し、「赤ちゃんってこんなに可愛いんだぁ。なんて幸せなんだろう。」

当時の私は、今まで生きてきた中で一番幸せだなぁっと思っていました。母になって、母が私をこんなにも大切に育ててくれた理由が分かったというか分かったつもりになったというか、「お母さん、ありがとう。私も母になって、お母さんが私を大切に育ててくれた理由が分かったよ。」みたいなことを伝えました。

初めての子育てでしたが、毎日母が通ってきてくれていて、大変さよりも幸せいっぱいの毎日でした。

でも、そんな幸せは、ある出来事により、一変することとなります。

長女が2ヶ月の時、両親が一緒に亡くなったのです。

父は幼い時から心の病を患っており、その病がもとで、母と一緒に心中するという形でこの世を去ってしまいました。

母と連絡が取れなくなり、母の会社に電話をしても休んでいると言われる、夜旦那さんが帰宅するのを待って、実家に連れて行ってもらい、その事実を突きつけられることになります。

葛藤

両親がいなくなってからの私は、今思うとまさに腑抜け。長女を育てるということに没頭することで、なんとか生きていたという感じでした。いずれ両親が住むという予定で購入して住んでいたマンションを売り払って、旦那さんの実家に身を寄せることになりました。

でも、当時の私は母を失った寂しさ、父への怒り、そして自分の存在の虚しさ、などで占められていたため、誰にも頼ることができず、苦しい日々を過ごしていました。

母に会いたい、母に話しをしたい、私の味方は誰もいない、私は一人ぼっち、そんな思いをずっとずっと握りしめていました。

2年が過ぎ、両親の命日の翌日に生まれてきた次女に導かれる様に、勤めていた飲料メーカーを退職し、このお肌の道へ進むこととなります。

出逢い

会社員をやめて、周りの環境は一変しました。たくさんの人と出会い、いろいろな価値観、考え方に触れ、私自身も自分自身が抱えていた思いと向き合い変化していきました。

中でも一番大きかった出会いは、お肌のことでイベント出店していた際に、お隣にいらっしゃった海響(MIKI)監督との出会いでした。当時はクリスタルボウル奏者さんでいらっしゃり、演奏をしにそのイベントに出られていました。

クリスタルボウルの音色が、肌を内側から美しくするということは知っていたのですが、海響(MIKI)監督のクリスタルボウルの音色を聞いた時に、「すごい!」と感動。すぐさま海響(MIKI)監督を、定期的に地元に呼んでコンサートをしよう!と決意したのでした。

クリスタルボウルの音色を定期的に聞いていくことで、私自身の凝り固まった感情や、想いがどんどん溶けていった感覚がありました。ある時は、母との楽しかった思い出が蘇ったり、あるときは、憎んでいたはずの父の暖かさに胸がいっぱいになったり、何度も何度もクリスタルボウルの音色を聞いていったことで、私自身の内側から、「私がやりたいこと、この人生をかけて成し遂げていきたいこと」が見えてきたのです。

もともとあった思いを思い出したという方が正しいのかもしれません。

そして、2020年の春過ぎにお会いしたある方に言われた「私たちはどれだけ許されて今を生きているか」という言葉にハッとします。

もうきっと一生許すことができないと思っていた父、憎くて憎くて大嫌いだった父、その父への想いが大きく変化したのです。

私は父を許せないと思って生きてきた。でも、私自身はどれだけ父に許されて、生きてきたのだろう。そう思った時に、今までの全ての苦しさが溶けていく感覚がありました。

その途端に、父から受けてきた大きな大きな愛、その愛がどんどんどんどん思い出されてきました。私は本当に父からたくさんの愛情をもらって育ってきた。そしてそれは今でも変わらない。父と母が今もこれからもずっとずっと見守っていてくれる。私は大丈夫だ。そう心の底から思えるようになったのです。

私が伝えていきたい想い

現在私は、海響(MIKI)監督が2019年9月23日に公開された映画「愛の地球(ホシ)へ」の事務局をさせていただいております。

その映画の中で伝えられているのは、自分自身が地球に来ると決めた時の思いがあると気づき、それを、思い出そう。一人一人がその思いを思い出し、気がついて行動していくことで、地球は愛に包まれ、宇宙も愛に包まれる。監督は宇宙から受け取られたメッセージを映画で伝えていらっしゃるのです。

驚くことに、はからずして、わたし自身が、2021年9月23日に公開された映画「愛の地球(ホシ)へⅡ」に出演することとなりました。

両親が亡くなった当時は、自分が生きている意味を見出せず、泣いてばかりいて、卑屈だった私が、多くの方との出会いによって、変化をしてきました。もちろん今でも、泣きたいことや悲しいこと、怒れることはあります!!!笑

それでも、いつも前を向いて、自分の命に感謝して、両親に感謝して、周りに感謝して日々を生きることができています。

以前のわたしよりも、当然今のわたしが好きです。

私がそうであったように、人は人との出逢いによって、人生を変化させていくのだと思います。その時、その時にどのような人に出逢うかは、天のみが知るところなのでしょう。

自分は変えられても、他人は変えられない。

それでも、おこがましく、わたしの歩んできた人生がどなたかの勇気になったり、どなたかのきっかけになったら嬉しい!という思いで、この映画を伝えさせていただいたり、イベントを開催して、人と人を繋いだり、お肌を通して、自分自身と向き合っていかれる方のお手伝いをしたり、そんなことをさせていただく毎日です。

下記は数年前に綴った当時の私のSTORY

この頃はまだ、両親の亡くなり方を誰かに伝えるということはできませんでした。

それでも、一生懸命もがき、前に進んでいこうとしていた私、とっても愛おしい。笑

写真なども掲載しています。よかったら覗いてくださいね。

4年ほど前にアメブロに綴った当時のSTORY